アメリカ 自然 【小池 清通】

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 (園芸療法協議会季刊誌投稿文より)

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 土にかえる

 自然に生き、自然と協調しながら営なまれ継承されてきた農耕文化が支えた生活の基本的なものとして、日本語には「土にかえる」という表現がある。それは我々を含め、与えられた命を終えた後に起こるべき自然界のプロセスを意味し、比喩的なニュアンスも含めて文学的響きもある表現だと思う。生きる時間を与えられ、その役割を果たした後に再び自然の懐に戻るという意味である。有機物はそのまま放置されれば、自然界では捕食され、最終的にバクテリアによって分解(腐って)され大地に戻る。それが本来の形であり、捕食されることで生きているものに「活力」を残し、命のサイクルというものをまっとうする。

 しかしながら、便利という「普遍性」をお題目にして人類は人間社会という自分たちだけのものを作り上げた。古代の植物の化石を原料として広範囲に普及させている石油加工製品は土に戻り難い。我々が大量に生産し利用しながら世界中に撒き散らしているこれらの「製品」は、自然本来のサイクルとは違った主観と目的で作り上げられてしまったものであるという点で我々だけに意味と存在価値がある。これは自分勝手な自然界の中での振舞いではある。近年、土から得られるものへの再認識が必要であると気づくチャンスが多く感じられるようになっていると私は思うが、社会という人間本位の経済の中で生きる人たちは、財産や地位に翻弄され、物理的な裕福さに五感を麻痺させられて、実際には自分の身辺の事にさえ気を配れなくなっているように思える。「勝ち組、負け組」などという表現があるらしいが、そんな判断や位置を作って自分の存在の意味よりも社会的なポジションだけのために必死になっている輩が少なくはない。

 何がもっとも大切なものだろうか。核家族化が進んできた理由は、物質的に恵まれてきたからである。が、それによって心の支えあいが消え続けているように思えてならない。物質文明が精神文化を押しつぶすことによって心の寂しい人たちが増え続けているのは事実であろう。孤独感や疎外感、不信感や目標のない毎日を過ごす中で、物質的なものだけを夢見る世代さえでてきているようである。また文明に頼ることによってのみ現実回避を心理的にしなければ生きていけない人たちも残念ながら増えているように思えてならない。ソフトウエアというものの発達によってばら撒かれたゲームはファンタジーを作り出し、またその場限りのやり直しの効く単純な判断だけで物事が動くと思う心理状態を作り出す。近年の犯罪にみられる命を尊ぶ心にかける手口や内容は、現代社会の悲劇としかいいようがない。

 日本人は農耕民族である。故に日本人の心は農業というものに既存するものが潜在的にあると思う。自然と共に生き、自然からの恵を生活の糧にする。そんな農業という食物供給文化が基本的な生活を支えてきていた。地方によっては季節によって収穫されるものを保存する文化がある。しかしながら、(第二次大戦)戦後はそんな私たちの先祖が培い築いてきた文化を西洋文明だけに頼って崩壊させてきている。社会を支える大きな力となるべき政治にしても石高(米の年貢量を基準としたもの)によるものではなくなり、金額によるものになったために目先だけの「利益」や選ばれ権力を与えられている者が自分の任期中に上げたい「成績」のためにだけ動く短期的な欲によって、政(まつりごと)の趣旨そのものに大きなずれが生じているのは多くの方々の知るところである。

 桜守として知られている佐野藤衛門さんは、桜並木を作りたいとある行政機関から依頼を受けた時に、見事な花を咲かせる桜の若木に「夢」を託して植えようとした。植えている作業中に訪れた当時その担当責任を担っていた政治家に、数十年後に素晴らしい桜並木になることを誇らしげに伝えたところ、こんなことを言われたという。

 「わしの任期中に花見ができなければ意味がない。もっと早く咲かせられんのか。」

 人間もそうであるように、その人格や人柄は一日では形成されない。「ローマは一日にしてな成らず」という言葉もあるように、物事にはそれなりの歳月が必要になる。人は何を急ぐようになってしまったのだろう。すぐに結果を求める近年の株式市場が、不自然な株式相場の動きを形成しているのは、この類の心理または欲によるものであると分析できたとしても不思議ではないと思う。しかし実際に流れる時間と、その中を生きる我々が思い感じるべきものとは、早く走りすぎている我々の心理とは裏肌に古代からずっと同じペースで流れている。それを強く認識し直せるチャンスを今与えられているのではないだろうか。

 畑を壊し均し、水田を埋め立てて駐車場を作るのは現代の技術をもってすれば一日でもできるだろう。しかし、一旦作られた駐車場を潰して畑や田んぼに戻すことは容易なことではない。
外見的な形を戻すことは可能であっても、一旦化学物質(アスファルトやタールなど)が混入した土壌を、食品として育てる畑に戻すには長い年月が必要になる。また、手間を省くために使われる除草剤などは土の中に長く残る。穏やかに見える川の流れも足を踏み入れると、思わぬ力で流されてしまい命を落とすという見えるところと見えないところの「現実」にも似ている。

 簡単なものはテレビの遠隔コントローラーのように誰にでも使え便利ゆえに普遍性を持ち、少なくとも一時的に重宝されるかもしれない。しかし文明に染まりすぎると自分で行動を起して作業をするようなことを忘れ、その能力を失いかねない。それは、本能の退化への道である。どこまでが便利で、必要なものなのだろうか。こんな点でも自然との協調、そして農業という「自然頼み」の生活の糧としての形の大切さを感じる。

 植物を育てることの素晴らしさは、その収穫を得るという結果(報酬)だけではなく、プロセスの中から与えられる恩恵も大きい。幼年期に土を触って過ごす子ども達は情緒感や感性の発達に重要なものを得ているし、その事実は、近代社会の中で静かに広がる精神的ストレスやアンバランスが繰り広げる大きな人間社会への影響への警告を促す大きな要素であると私は信じる。土を掘っていると姿を現すミミズや幼虫たち。裸足で畑にしゃがんで草むしりをした日々に、足の裏の神経を伝って学んだ「感触」が宿り、太陽を浴びて大きくなる植物の成長をみることは、大昔からの先人とのつながりを与えてくれる。この「継承」は自然との繋がりであり、この大地に生きる人類にとって、決して忘れてはならない生物としての存在そのものを守る「絆」ではないだろうか。

 何事においても早く大量に作ることができることにだけが全てと思い込む企業体が、少しでも多くのものを売ることによって利益を上げようとする。法人とは社会に貢献するためのグループであり、社会を利用してその組織に関係するものだけが利をむさぼるものではないだろう。ましてや、政治家と密着して自分本位な政策を進めさせるものでもない。物質に恵まれると人は助け合わなくなるという心理反応がある。社会という人の集まる場において、この助け合いの精神がなくなるとき、人は進化することなく退化、そして絶滅に向かって心身のアンバランスに気づかないままお金で買えるもので現実を隠して日々を過ごしていくことだろう。そんな社会は、何の役にも立たない単なる自分本位の「その場(時)限りの喜び」を一部の者たちだけが分かち合う愚かなものに思えてならないのである。

 土に戻るまでの与えられた期間の有難さを感じたい。そして自分に与えられた自分にできることを精一杯して生きることがどれだけ自分の存在を活かすことになるだろう。それはお金で買えるものでも、人からもらえるものでもない。個々人が自分の芯をしっかりと持ち、各々の与えられた能力を見つけて、生きるチャンスを与えられている貴重なものであることを分かってもらいたい。

 在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに写真作家活動
                砂漠写真、砂丘写真を主体に大自然とのまじわり、つながりを写真を通して紹介

 

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
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