砂漠撮影 【小池 清通】

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 (園芸療法協議会季刊誌投稿文より)

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 生態系を知る必要性

 私たち人間は、他の動植物と同様にこの与えられた環境の中で命を繋げてきた。しかし人間は自己中心的な行動をとるようになり、発展という言葉に驕り、独走態勢をとることによって環境のバランスを崩し続けている。

 現在もわずかに残っている先住民と呼ばれるアマゾン奥地の原生林(ジャングル)で生活をするある種族は必要なものだけを狩猟や採集をすることで手に入れて消費し生き続けている。彼らは貯蔵庫というものを持たずに雨をしのぐためだけの構造の共同の家を作り、原始的な「神」を崇拝することによって自分たちの挙動を戒め抑えながら自然と協調して生きてきた。取材特派員が「食べ物がなくなったらどうするのですか?」と聞いていた場面があるが、その時の返答が印象的であった。「必要なものがあれば森(ジャングル)が与えてくれる。」それは周りと協調して生活しているという具体的な意識であり、より深いところで無意識に周りと自分は一体化しているものであるという、生態系の一部としての認識が本能のレベルに明確にあるからだと思う。つまり生態系のバランスというものの大切さを誰に教えてもらうことなく認識し、それを超えてしまうことすら考えず、持ちつ持たれつで生き続ける全ての生き物たちと「同等に」生活しているということだと思う。他の生き物同様に彼らの廃棄、排出するものは全て土に戻る。

 頭脳と手先の器用さで長けている我々は他の仲間(生物)たちを突き放すようにしてエゴを通し、文明と呼ばれる技術を発達させることによって普遍性を武器に経済というモンスターを自分たちだけのために作り出し、そこに身を潜めることによってのみ満足感を持ってきたように感じられる。驕り自惚れて自分本位に生きる人間が引き起こしているアンバランスな環境や、それが引き起こしているであろう自然の調整プロセスが地球レベルで近年大きな変化を表し始めている。それは単に認識されるだけでなく大きな課題として今は何をおいても対応しなければならないレベルになっている。

 アメリカではフロリダ州のEvergladesと呼ばれる大湿地帯に1900年代初めに開拓が始まり、多くのエリアが埋め立てにより住居や農耕地拡張のために開発された。この巨大な湿地帯はフロリダ半島の水を海に届けるまでの最終通過帯としてスポンジの役割をしているばかりでなく、半島そのものの土壌の流失を防いでいる地域で、開拓によって破壊された生態系や地理的な形状が問題を起している。現在はそれに気づいた団体や市民が最善を尽くして自然・環境保護活動をしているが、自然が作り出した形状に手を加えることが如何に危険であるかを証明するような出来事だった。しかしながら、人間が引き起こしてきた自然界のアンバランスによって与えられた弊害は、人間社会では単に「被害総額」という金銭的な数字によって記録されるのみで、生息地をなくし、食物を奪われた生き物たちのことを言及することはないし、調べるすべもない。河川周辺の沼地や水草地帯が増水時に水を吸い蓄えることによって洪水を防ぎ、ハリケーンなどの大雨の時に襲い狂う水や風の勢いを吸収していたことを知ったのは、灌漑施設開発や道路開発、生活環境の改善という名目でそれらを破壊してからのことである。植林にしても早く成長する針葉樹を植え、安く手に入る種類やそこになかった種類の樹木を植えたために土壌が弱くなり土砂崩れに繋がっている例は日本でも決して少なくないだろう。安全のためだといって見通しを良くするために傾斜部の草や雑木を除去したために地表面が緩くなり雨に流されて地形に変化が現われたりしている例もあるはずである。

 アメリカ中西部を横切るオレゴントレールと呼ばれる開拓者が使った街道がある。中西部のゆるい丘陵地の一部には湿地帯とまでよばれなくても数多くの大小の池や水溜りがあった。そこには季節の流れに応じて中継地または越冬地として渡ってくる水鳥たちが集まり、命の流れを繋げる重要な場所としての意味をも持っていた。しかし、人間の往来が増えるにつれ定着者たちが農耕地開発という目的のために水を抜き埋め立てた。それによって水鳥たちは下りる場所を失い、数を減らしていったことは確かである。水場は自然が作り出した造形物であり、それらに「合わせて」渡り鳥たちが移動ルートを与えられていたという見方をするのであれば、生態系における大変なダメージを人間は引き起こしたことになる。何においても現存するものは全てそれぞれの意味役割を持っているものである。渡り鳥のルートが変わることによって、場所によっては草が伸びすぎ虫が増えすぎるというような、広範囲に渡る大きな影響がでてきているのも確かだと思う。

 自然への労わりが、生きるもの全てへの労わりであり、そこに存在する我々が決して忘れてはならない本能と同じものであると思う。しかしながら文明の発達によって、人間においても本能そのものが衰弱し消えていく恐れがでていると思われる。「使わないものは退化する」という一つの事実を考えるならば、陸に上がった動物が泳がなくなったり、天敵がいないために飛べなく(必要がなく)なった鳥がいたり、誰もが頷ける事実が浮かび上がってくるはずである。

 小さいことながら私も危機感を感じているのは、自分も依存しており、それなしでは仕事さえできないコンピューターの発達による思考機能の変化に関してのことである。変換ボタンを押すことによって表示され選択ができる漢字は、覚えることを退化させているように思えている。幼少の頃に100字詰原稿用紙に書かされた漢字は頭で考え、目で見て、手で書くことによって覚えた。これは頭、目、そして手を使う芸術家やチェスや将棋をする人にボケが少ないという点でも、記憶力を伸ばすだけでなく脳機能の維持をするということにおいても類似した接点があるのではないだろうか。人間は、本能的に脳を活性化させるために視覚的情報(目)を必要とし、手足を動かすことによって脳の命令機能を潤滑化する。また、血液循環を健全に保つことによって新陳代謝を潤滑に行い身体機能を最良の状態に保とうとするが、そんな当たり前に行われていることが、文明にとって代わられた場合には長期的にみて一体何が起こるのであろう。これは人間という動物の身体という生態系におけるだけのことであるが、忘れてはならないことだと思う。

 使わないものは退化するという意味は、不必要なものは存在する意味がないという意味にも理解できる。しかし、自然は不必要になったものにさえ警告に似たものを発しているように見えることがある。それは自然のバランスを崩し続けている人類に対するものである。

 残念ながら多くの人間は物質主義の中で快楽を覚え、また物に依存しながらも物がなくなった時のことを考えて不安にかられ必要以上の貯蓄に走っている。経済はそれに応じて必要以上のものを作り流通機構を発達させてあちこちにばら撒き、あのアマゾンの先住民の言う自然との協調とは相反した自分本位な世界を作ってきた。自分で生態系を崩しておきながらも、まだ国のレベルで真剣に動こうとするものは少なく、目の前のご馳走だけを考えている輩がステージで踊る時代になってしまった。

 使わないものは退化する。しかし他のものたちを巻き込むことは、生態系に生きる一生物である人間にとっては、聖域を侵すにも値するタブーなのではないだろうか。もう少し高い位置から自分たちの存在の意味と位置を認識し、人間として存在することに誇りを持つ必要があると思う。我々が他を超越した知能と創作力などを持っているのは、与えられた「役割」を果たすためだと思う。

 在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに写真作家活動
                砂漠写真、砂丘写真を主体に大自然とのまじわり、つながりを写真を通して紹介

 

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
「自然とつながる時」
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