大砂丘 【小池 清通】

砂丘写真 【小池 清通】
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 (園芸療法協議会季刊誌投稿文より)

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 バランスと存在の意味

 私たちにとって人間の歴史が始まる以前から、太陽は現在まで地球の成長と共に当たり前に存在してきた。太陽光は地上に育ち生きる生物の命にエネルギーを与えてくれるし、熱と共に降り注ぐように舞い降りる光が大地に様々な影響・効果を与えており、角度を変えて考えるならばそれらに順応し活かしているものたちが現存しているとも言える。酸素を吸って一酸化炭素を吐き出す動物がいれば、それを吸って酸素を吐き出す植物が存在することにも、共存のバランスを保つ役割分担をみるような気さえする。それらは理論的なレベルでのみ解釈できるものではなくもっと深いところで微妙なバンラスをもって存在する「形」であり、総てが意味を持った存在であり、繋がり支えあっていると思う。

 受粉を促す虫を呼び寄せる鮮やかな色やネクターを持つ花、そしてその花が咲く時期に蜜を求めるべく存在する虫。食欲をそそる味を施して種を包み、あちこちに運ばせて子孫を残そうとする植物、そしてその実を好んで食べる動物たち。受粉だけの役割を持つ虫もいるだろう。「役割」という言葉が、存在する動植物それぞれに与えられている。それは「何故」ではなく、それぞれの存在のバランスを保つための土壌のような意味があるからである。それは論議の余地のない必然的なものと理解したほうがいいものであり、我々にも与えられている責任ある自然界の一つの歯車であると思う。

 動物には保温性と変温性のものがある。爬虫類は環境順応する過程で保温が出来ない身体を持ち生息しているため太陽光を浴びたり、水温、気温の上昇である程度まで体温を上げないと活動できないが、暑くなりすぎると日陰に潜んだり口をあけて体温調整をする。保温動物は体毛や皮下脂肪を蓄えることにより体温発散を防いだり、エネルギー供給を賄う。暑い時は汗を掻くことによって熱を外に逃がすものもいるし、舌を出して調整するものもいる。食物調達が困難な季節的環境に生息するものは食べ物があるうちに食べ続けて身体に脂肪として蓄えて冬眠したり、埋め隠しすることによって生き延びる術を身につけている。人類でもエスキーモーなどは獲物が捕れた時に「食いだめ」をする習慣をもっているし生肉や脂肪を多く摂取することによって北極圏の自然に生きる。植物は球根にエネルギーを蓄えたり、根に窒素を貯めながら生き延びることもあるし、水分が不足する干ばつの年には日当たりの比較的悪い部分の枝への栄養補給を絶って枯らすものもある。窒素分を根から吸収できない植物は空気中から取り込む術を身につけている。驚くべきアダプテーション(適応)と呼ぶべきことかもしれないし、与えられた条件を満たせるもののみが存在の意味を自然界のバランスの中に与えられているとも理解できる。

 胎児を産むものと卵を産むものはそれぞれの環境や食体系の中で種の保存のために最適と思われる適応をしてきた選択の形でもあり、ひょっとすると進化のプロセスの中継点での一つの姿であるだけかもしれない。成長スピードの速さも繁殖地域や季節の条件(地形や天敵の有無など)に関係していることが多く胎児や卵の数は生存率と大きく関係を持っている。増え過ぎず、はたまた絶滅の危機をもたないバランスの中で持ちつ持たれつの食物連鎖的関係があるのも自然の摂理なのであろう。

 宇宙から見下ろしたなら、地球の表面を滑るようにして移動し気まぐれに姿を現しては消え、時には巨大な渦となって各所に雨を降らせる雲は「恵みの雨」と賞賛され我々の生活の基礎である農耕や家畜の餌となる草に力を与えてくれることもあるが、高気圧と低気圧は風の流れの向きを相反するものにして、雲の役割を分担させる機能も果たしているように見える。それは地球という大きな生命体の大気圏内におけるバランスの動きである。大地は火山活動や断層がシフト(ずれる)することによって地表面を震わせるが、これも内側からのストレス発散であり調整なのだろう。

 「形あるものは崩れる」という。「生きている」ものは常に動いている。ゆえに「流水濁ることなし」という茶道の言葉にも感じるものがある。一つの生命体として新陳代謝をしていると考えればすべてに「命」があり常に意味のある動きをすることによってお互いの存在を支えているのである。

 生態系というものは存在するもの全てが各々の役割を持って動いていることによって健全な活動を保っている。形や条件、環境が変わるとそれに合うように「バランス」(調整・適応)をとり始める。ダムの貯水湖の水量調整をするにも技術を持って水深レベル別に放水をする必要性にすでに気づいている。それは、貯水に沈殿したり、一定の水位によって濃度が濃くなるミネラル分が偏り、ただ放水していては自然が与えてくれる上流からの水質をそのまま下流に流せないということである。しかし、人力には限界というものがある。河川流域の動植物分布を完全に管理することはできるものではない。水力発電目的で作ったダムなのか、貯水を目的にして作ったダムなのかに関係なく、自然の摂理に対する先人が持っていた畏敬の心を持たなければいけないと思う。ビーバーという動物は周辺から切り倒し集めた木々を川に積み上げるようにして「ダム」を作り、その中に巣を作る。それの上の一時的貯水量は変わるがダムは川の流れを崩す大きさではなく、常に上流から流れてくる山や草原の有機廃物を塞き止めながら沈殿させ腐らせる。沈殿が次第に盛り上がり「ダム」を境に浅瀬が出来、植物が根をはり始める。浅瀬の流れが姿を消すと水は標高の低いところを捜し川は引き続き新ルートを作り、旅を続けていく。浅瀬が草原となり、草原が森となって自然のサイクルが完了する。この森の再生プロセスは100年以上もかかるものであろうが、森の活性化には山火事が必要であるといわれるように、川もビーバーという動物に役割を与えながら、山野の活性化の一役割を担っているといえるだろう。

 生態系とは果たして大自然にのみ言えることなのだろうか。大自然が細胞でできているという見地で考えるならば、各々の細胞が成長しまたは現状維持をするために呼吸をして生きているとも言える。死んだ細胞は土に戻り生きているものの栄養になる。このように考えてみると、私たちにおいてのもっとも身近な「生態系」というものは自分自身の身体であることに気づかされる。数え切れないほどの数の細胞が常に分裂をしたり死んでいる。食物を摂取することによってエネルギーを作り活動し、不必要なものや有害物は外に糞便や汗を通して排泄する。時には発疹や痛み、冷えやむくれで何かを知らせようとするのかもしれない。膿を出すことによって身体は治ることもある。発熱は熱に弱いバクテリアやウイルスを殺すためにしている調整(身体反応)だろう。O157による食中毒事件が以前あった。カイワレ大根が原因だとされたが、O157は胃酸で死ぬという。また疑いの主犯と言われたカイワレ大根を食べた人が全て発病している訳ではないだろう。生態系はよくできているが、その機能や役割を理解しなければもっている能力をはっきできず無実の罪人を作ってしまうだろう。そしてこの場合、苦しむのは自分になる。意思を持つことを許された人間ができることは単に文明を発展させて本能を退化させることではなく、その意思をもって与えられた「当たり前の」ギフトを無駄なく活用することではないだろうか。よく噛むことによって入ってきた食物に胃酸が十分染み入り消化を円滑に行えば防げたことだろうし、見方を変えればよく噛まない人が増えているということでもある。柔らかい食物が文明の産物として普及している事実を裏付ける「現実」の危機ではないだろうか。

 自然の中の「役割」を考えるとき、私たちは自分の周りのあらゆることにもう少し同等の、そして冷静で謙虚なアプローチをすべき時代に来ていると私は思う。

 在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに写真作家活動
                砂漠写真、砂丘写真を主体に大自然とのまじわり、つながりを写真を通して紹介

 

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
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