デジタル化の効用と問題 【小池キヨミチ】

写真作家 【小池 清通】
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ひとりごと - デジタル化の効用と問題

 アメリカ合衆国コロラド州在住 在米写真作家が綴るひとりごとシリーズ [もくじに戻る]


 デジタル化の効用と問題


 デジタル化が普及し「画像」というものが、誰にでも「自分のもの」にできるかのように広がっている。この技術は素晴らしいもので、今はデジタル技術の御蔭で医療や報道など、記録写真プロセスがかなり改善され伝達画像としての送信スピードが大きく発展した。しかし、関連企業の普及速度は留まることなく、インターネットの普及にも似たような「便利さ」が浸透している一方、大きな問題が浮き上がってきている。なんでもできるソフトが開発され一般に出回り、簡単に画像に手を加えることができるようになったため、それに伴って、写真にこれを悪用する傾向がでているようである。

 これは芸術写真(風景写真、ポートレート、動植物写真など写実的なものを芸術として捉えるもの)に関してのことだが、デジタル技術を使ってありえない情景を作り出し、真実とは異なる画像を作り、それをさも現実に撮影したものとして世に出す輩が増えている。そこに生息していない鳥を飛ばしてみたり、ミラクルショットと思えるような場面を創作したり、創作者の意図で実存以上の数を挿入したり、黄色い葉を赤くしたり、現実以上に焦点をシャープにしたり、コントラストを誇張したり、ひょっとすると写っている都合の悪いものを消してしまったりすることも可能になった。画像に手を加えることは、「真実とは異なるもの」として評価すれば、それはそれでいいのだろうが、カテゴリーとしてグラフィック画像、デザイン写真、または創作画像にすべきである。ところが、最近の写真のコンテストに、そのような「虚実」を入れたものを応募している輩が多くなっていると聞く。また、それを見抜くことなく、珍しいショットだ、などと賞賛して入賞させている審査員がいる。これは、審査員の目がどうのこうのというレベルのものと、フォトコンそのもので写真コンテストとグラフィック画像コンテストとしっかり分けていないところに問題があると思う。もちろん、デジタル写真であっても真実を撮影している写真家もいるだろうから、デジタル部門を真実の画像と手を加えた画像の部門に分けなければいけない。しかし、デジタルの場合は手を加えてもそのテクニックが巧妙であれば見抜きにくいという事実がある。フイルムなら、原版を診れば分かることなのだが、デジタルと銀塩は全く違った性格のものなのである。

 こんな風に、写真という文化財産を、文明の普及で奢った輩たちが虐待を続け、それを制するべきもの、威厳を持っているはずのものたちが何もしようとしていない。誰にでも印刷(現像ではない)できるプリンターが普及したりしているから、便利かもしれないが、果たして手放しに喜んでいいのだろうか。これらの輩たちには、プロと称する写真家、メディア関係者なども含まれているのが情けない。写真は写真屋さんに頼むからいいのではないだろうか。すべてを自分でやれると思っているのか、やろうと思っているのかは個々で違う価値観が作用すると思うが、ビジネスでも自分で全てやろうと思ったら、社会の生態系に歪ができる。私は写真を撮ることを仕事にしている写真家だが、フイルムの現像は現像ラボに頼む。作品の焼付けは焼付け技師にお願いし、パネル、額装仕上げはその専門家に頼み、発送は発送会社に依頼し、展示は展示専門家にお願いしている。それが、生態系に例えることのできる共存の流れであるし、そうすることによって私は写真撮影に全てを注ぎ集中することができる。これが、分業である。ただし、これは自分で暗室を持って焼けつけをする方を非難するものではない。それは焼付けを自分でプロセスすることで、焼付け技術を独自のものとして作品作りをしようとするレベルのものである。アンセル・アダムスは、そんな技術で名を馳せた作家である。

 西洋的な剥奪的心理が含まれたビジネスは消費者を思うというより営利を重視して株主を喜ばせる業務に変わり、時には手段を選ばない増産、販売拡大につながる。そのツケがリコールや偽装、偽称、その他の違法行為へと暴走するのは、近年のトヨタの大量リコール問題やホリエモン事件、米国では証券会社の汚職やBPの海底油田事故、などをみれば明白である。高い物干し竿や無料回収を偽った詐欺行為、オレオレ詐欺やマルチ商法、ねずみ講など、変わらぬ剥奪精神はあるが、明治以降蓄積され、第二次大戦後の占領下に埋め込まれた欧米的精神が、国民性としての体質的に合わない私たちにそろそろ大きなツケを呼び込んでいるように思える。もう一つ付け加えるならば高度成長期を経て現在に至る物質が裕福レベルを決める社会の中では、便利で早くて安いという楽を売る商品が浸透化し、穀物を消化する体質を持つ農耕民族に、短期間で多大なる獣脂や化学添加物を含めて食べさせるシステムが普及したことである。そのツケは近年多くなっている疾病の種類に反映され、身体に合わない食材や食生活の中でしか生きられないような社会を強いられている事実も認識しておかなければならない。

 写真関係企業は、何故写真屋を苦しめるような展開をしているのだろう。それは、西洋的な弱肉強食的思想をビジネスに埋め込みすぎて、自分たちが儲かれば他はどうなろうと構わないという言動が当たり前になっているからか。そうだとすると、私はそこに退化する誇りの心を感じる。多くのフォトコンテストは、デジタルと銀塩(フイルム)を同一視して受付け、同カテゴリーで評価をしようとしている。前述のようにこれらは全く違ったものとして評価されなければ、芸術を守り育てるべきコンテストが写真文化を崩壊させ、ソフトで手を加えられる容易な手段に飛びつき、真偽の見分けのつかないプロを育て、故にグラフィックデザインへの評価さえも脅かす可能性もでてくるのではないだろうか。

 大型総合店が増え、近所にあったお豆腐屋さんが消え、八百屋が消え、電気屋さんが消えている。ビジネスとしての便宜さが消えているというだけではなく、近所が助け合ってそれぞれの役割を仕事としてもって機能していた「日本の生活」の姿が消えているということに気づくべきではないだろうか。公共交通を使うことができる地域でも車で移動するのが時代の姿になっている。税収入を求める政治的意図に踊らされ、税収入と雇用数の大きさに大企業と癒着する役所が増え、二酸化炭素削減を歌う一方で高速道路使用を促す1,000円政策を政府は放つ。天然資源に恵まれない日本が育て上げた技術を、いとも簡単に海外に放出させる終身雇用制、年功序列を崩壊させる政策、良し悪しは別として古くから培われた談合文化、天下りシステムなどを、表向きの、さも「政治」をやっているようにみせるためだけの理由で潰そうとし、それによって起こる新たなる弊害を処理できずに無視する新鋭政治家たち。どこまで背伸びを続けられると思っているのだろう。

 写真文化ということで言わせてもらうならば、フイルムを守らないと大変なことになると思っている。そして、プロとして活動している写真家が、もっと誇りをもって写真文化を守ろうとしなければならないだろう。デジタル、そして手を加えたデジタルグラフィック写真と銀塩フイルム写真を分類して、それぞれに評価することを主張できる立場におられる「先生」方は多くいるはずだ。「先生」とは深い認識と経験を活かし、守るべきものを、誇りをもって守れるだけの技量と度胸のある人でもあるはずだと私は思い信じる。それは、目の前の仕事にだけ飛びつき、雇い主の都合の悪いことを指摘できない写真家は芸術家ではなく、また「先生」と呼ばれて奢り高ぶる輩の集団であるだけだと思う。

(2010年8月)

  在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家
                ライフワークとして砂漠写真(砂丘写真)を撮り続ける
                生態系というものを砂漠地帯の営みにみる 欧米文化

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
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