在アメリカ写真作家 【小池キヨミチ】

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ひとりごと - 分業化と大量生産

 アメリカ合衆国コロラド州在住 在米写真作家が綴るひとりごとシリーズ [もくじに戻る]


 分業化と大量生産


 分業化と技術革新による能率向上によって可能になった大量生産は、私たちの社会に物質の恵みを撒き散らし、システム化という「形」による潤滑な機能を与えた。ところがすべてのものが、この「形」に当てはまるわけではなく、またそれが人為的なものであるが故に我々の内面に大きな孤立的な、また孤独的にも思える心理を作り出してしまったように思える。

 文明の恩恵に溢れる社会では、自分が直接関与しているもの以外は、お金があれば入手できるようになっている。土に触れることなく、虫に刺されながら草をむしることもなく、また冷たい雨に晒され、波に酔うこともなく、作物や産物を手にすることができる。食材や材料として買えるものも、その原型や生息域の状況など知ることもないし、それらを生産するために手を加えられた生態系にどのような影響が及んでいるかなど想像すらできないだろう。しかし、第一次産業に携わっている人たちは、自然から直接受ける恩恵に直接つながりながら生きており、その中にあって初めて生活の営みを許されているという感覚があると思う。昔は必要以上に木は切らなかったし、山菜にしても根こそぎ採るようなことはなかった。有機廃棄物は土に戻し、また川の水に含まれて河口に運ばれ海に命のサイクルをつなげてきた。

 指摘すればきりがないだろうが、水力発電に関して言えば、アメリカでは最大と言われるフーバーダム(1936年竣工)がある。このダムは世界恐慌の折に政府が失業者対策(フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策)の一策として行った大土木事業である。コロラド川(全長2,330`)を塞き止め電力発電のために作られ、カジノで知られるラスベガスや隣接するアリゾナ州、カリフォルニア州に大きなエネルギーの恩恵を与えてきた。現在に至ってダムを減らそうという動きこそでてはいるが、このような巨大なダムによってできた人工湖、ミード湖には上流から流れてくる堆積物の問題が生じ、更に上流にグレキャニオンンダム(アリゾナ州ペイジ近郊のグレン渓谷に建設:1966年完成)が建設され、リクレーション地域としても有名になった人工湖、パウエル湖を創り出している。これらのダムは想像もつかない量の貯水をするため、ダムから放水する水にも大きな配慮が必要なのは言うまでもない。貯水の水深レベルによって温度が違うし、水分中のミネラル(鉱物分)濃度や水深レベルによる配分も違ってくるから、下流に流される水の質そのものが変わってしまう。人間の理論には限界があるという意味において、生態系に影響を与えているのは間違いない。川が運ぶ栄養分は自然の命である。

 数年前に科学者が、同河川に人工的な洪水を作り出すべく動いた。それは数百年ごとに起こっているといわれるコロラド川の洪水がダムによって起こらなくなったことを指摘した上で、生態系を健全なものとするためには、それさえも人為的にやらなければならないというものだった。これに対して電力会社側は貯水レベルを心配し、また発電電力という営利的な現実を考えて大きく反対をした。最終的に、グレンキャニオンダムからの大放水が実施され大量の水がグランドキャニオンを走り抜けて下流に流れたが、これも理論のみによるものであり、知られている限りの知識を元にした結果さえも、すぐに望めるものかどうかは分からない。

 人間が作った社会を動かす原動力は、常に数字で判断される。生活の向上や改善も常に新しいものへの変換(移行)を意味し、特に技術的なものは勢いを弱めることなく不必要な領域まで入り込んでいるように思える。我々個々の心理までもが分業化を促進されるごとく、細かく隔離され、自分の目の前のことしか見えない生活が当たり前になってきている。前述のように製品化された物の恩恵はお金をもって入手して得ているが、物がどういう経緯で材料となり製品となっているか、またそのために自然にどのような爪を入れているかなどは現実的に感じることさえ出来なくなっている。また生活維持において必要なものなのかどうかさえ判断できないような経済の流れがあるのも事実である。

 我々は自然から生きることを許されて存在している。ところが、生活の中で持っているべき危機感というものが人間社会のシステムにおける経済的なものだけになっているような気がしてならない。災害が起これば、それは被害総額で報道され、病気になれば医療費のコストが気になる。駐車場にした方が固定資産税対策には効率的だと会計士に言われ、先祖代々受け継がれた畑にタールを流し込む。畑は一日で駐車場になるが、駐車場を畑にするには何年もの歳月が必要である。目の前に見える現実が如何に限定されているかということと、それをよしとする政治システムにも問題があるのではないだろうか。営利目的に許可を与え採掘を許したメキシコ湾の海底油田で先月大事故が起こった。6月3日時点でまだ原油の流出は止められておらず、すでに海面に漂っている原油量は想像を絶する。アメリカ南部海岸に漂着した油で命を落とした動植物の数も想像を超えているし、眼に見えないようなバクテリアなどの微生物の死がもたらす今後の「影響」は理論では表現できないものであると予想される。精神的に与えられたダメージは、漁業などで生活をする被害者たちだけにとどまらず、経済というシステムではとても収められない心理的なレベルで長く問題の根を張っていくことと思う。

 地球の過熱化現象がそれであり、この油田事故による被害にも見られるように、直接ダメージを受けている人は現実を強いられているが、他の者たちはニュースをみては「他山の火事」のように思ってただ傍観しているだけなのだろうか。石油依存症の社会は、このような事故が起こっても車に対する考えを変えないし、中東の石油に依存している事実と中東を核として存在すると言われるテロ組織への対策を認めながらも認めていない。それはハイブリッド車に人気が高まっている近年の様子をみれば分かると思うが、低燃費の車を乗ることが環境や中東石油依存症への対応なのではなく、車に頼っていることがその根源にある心理的問題であるとは誰も思わない。大型SUVにハイブリッド車がでてきたのは、ハイブリッドをファッションとして高所得層の虚栄心や偽善心をくすぐることによる営利目的であるのは明らかだし、それは、以前流行したロハス思想のそれにも酷似している。

  当たり前にあると思われるものに対する感謝の気持ちが希薄なっている現代だからこそ、そっと自然に耳を傾ける心の余裕を持ってもらいたいと思う。思えば、今ほど物質に恵まれていなかった時代の人たちは道草をすることを知っていたし、自然とつながるかのように詩も読んでいた。季節の変化を動植物の動きに感じ、雲行きを見ては洗濯物を家に入れた。屋根に布団を干し、旬のものを食べ、余ったものは近所に回して楽しんだ。日本にはそういう文化があるはずだと思う。


(2010年6月)

  在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家
                ライフワークとして砂漠写真(砂丘写真)を撮り続ける
                生態系というものを砂漠地帯の営みにみる 欧米文化

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
「自然とつながる時」
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