35ミリ フイルム 【小池キヨミチ】

写真作家 【小池 清通】
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ひとりごと - 字が書けない

 アメリカ合衆国コロラド州在住 在米写真作家が綴るひとりごとシリーズ [もくじに戻る]


 字が書けない


 思うことがあり、挨拶と礼を兼ねて何人かに手紙を書き始めた。ところが、字が書けない。どうしたものかと思ってみても、書けないものは書けず、話したいことが頭の中で流れをもって動き始め、それらが文字となって目の前に浮かぶように湧き出してくるのに手が動かない。

 昔は手紙というものが唯一のコミュニケーションの手段だった。近年に向かうにつれ電話が普及し、テレックス、ファックス、電子メールへと発展し、今では携帯電話で電子メールだけではなく、静止画、動画撮影はもちろん、ウェブサイトをみたりすることさえ出来る。そして、以前は未来の技術として騒がれたテレビ電話も実現しつつある。地球の反対側からも気軽に電話ができる時代に、時間的な隔たりさえなくなってきているように思える。

 普段から手で書いていないから、いけないのだろう。漢字を忘れているのはもちろんだが、書くという行為が退化している。それでも書いてみると、書けるように思えるのだが、読めないような字が並び始める始末である。「継続は力なり」とは先人が残した言葉である。重みを感じる現実がある。やはり継続的に続けないものは衰えるしかないのだろうか。だが、失うべきものなのだろうか、また、代用物であるワープロやその他のツールがその意味をしっかりと伝承し進化を本当に促すものだろうか。

 電子的に表示される文字は読みやすい。小さければ大きくすることもできる。字体を変えることもできるし、色も変えられるだろう。ところが、人と人とを結ぶつながりの力を持っている文字というものは、ただ読めればいいというものなのだろうか。文字というものはそれだけではない気持ちのつながり、そして気持ちそのものの重ささえも伝えるパワーを持っていると思う。手書きの手紙は、筆者の個性溢れる字体や感情を含んだ字面が感じられた。字に喜びが溢れていたり、悲しみや疲れが感じられることもある。ペンや筆の力加減で残される字面の強弱のある表情は何を意味するのだろう。またそれを感じることのできる我々の感覚とは、どういうものであり、何とつながっているものなのだろう。

熊野古道 これは写真画像に撮影者の気持ちが吹き込まれるように、字体にも、その時の気持ちや感情が吹き込まれるのではないだろうかと思う。手紙を「書く」ということは単に伝達的な機能だけではなく、「気」を送るほどの力があるのだとさえ感じている。字が躍り、走るように流れを見せる時、紙面が一つのキャンバスのように鮮やかさを放ち、また湿気や乾燥した空気さえ感じさせるだろう。ペン先や筆先に伝わる有機的なエネルギーは、姿を残す字たちに宿り、それらを読む人に伝わっていく。読者の感性に通じる力。それが目でみて読む字体の放つ様々な力を身体の芯で感じていく。

 ここ数日で数10通の手紙を書いた。頭は回るのだが手がついていかない。今日旅立っていった手紙たちは航空書簡だと、約一週間で日本に届くだろう。あと何通書けるだろう。思えば、渡米したばかりの頃はよく手紙を書いた。そして数週間後に返ってくる返信が楽しみだった。子供の頃は文通が流行った時期があり、ペンパルなどという言葉があった。ところが、現在は電子メールが当たり前になり、すぐに返信がないとお付き合いがなくなるほどのこともあるという。または簡単に即座に交信できるために返信が遅れたり、交信そのものを軽くみる傾向もあるらしい。気軽に使える電子メールがポケットやかばんに入れて持ち運べるツールで使えるようになると、便利さが有り難味を希薄なものにするのだろうか。

 速ければいいと思われている現代。新幹線はより速いものをと開発が進められ、移動距離と移動時間の戦いが一方的になりつつあるように思える。昔はローカル線の各駅停車でかなり時間をかけて移動をしていたが、その恩恵があった。窓を開ければ外の空気が入ってきたし、駅で停車中には窓から顔を出して駅弁売りを呼んだ。外の景色も目がついていける速度で流れてくれたし、車内からみる外の景色も自分と一体化していたはずである。人間の五感の受容能力が受け入れられる「速度」だったのだろう。果たして発展を続ける文明の利器に、我々の身体がどの程度まで着いて行けるのだろうか。そして、順応できるものなのか、またはすべきものなのか。物理的には移動している乗り物の中で流れる時間と、車外で流れる時間に違いがあるという。理論的に車内の時間の方が遅いらしく、これを応用するとタイムトラベルも可能だという話があるが、どこまで人間は足を踏み入れないと気がすまないのだろうか。

 文明というもの。ご時世に逆らう訳ではないが、どこまでが必要なのだろう。お金を出せば何でも手に入ると思えるような時代だからこそ、手間をかけることの大切さや、買うことのできないものの価値を見直すべきではないかと思う。藁をとり、縄を編み、そこから草鞋を作っていた時代は、自然の与えてくれるものを利用して生活の一部とした。そして、消耗した草鞋は捨てておけば土に戻った。

 便利ならよかろう、速ければ都合がいいと思っている人々が支えているように見える人間社会というものをみると、先人が大切にしていた時間が姿を消しているように思えてならない。道草のできない今の人たちが失っているものは、意外と気がつかないではすまないくらい大きなものかもしれないと思う。字が書けないというのは、一つの気づきの「症状」なのか、それとも身体が放つ「警告」なのだろうか。

 日進月歩で技術が発達する今も、私は35ミリのフイルム写真を主体として写真作品作りに取り組んでいる。645、67、68などと中判カメラも使うことがあるが、どうも自分にはパトローネ(135フイルムの各ロール)に愛着があるらしい。現実的には私の撮影活動に合っていると言えるのだが、与えられた撮影環境がある。またペンタックスLXという機材が手に馴染み、同じ35ミリのフィルムカメラながらニコンF3はまだそこまでの感触を持つまでには至っていない。

 写真機も便利さと撮影能力の高さが際立つ文明が普及し、盗撮や被写体をかまわない無配慮の撮影姿勢が目立ってきている。文明は便利だが、写真界にさえ、写真文化を破壊しかねない波が押し寄せている。

 なぜ、そんなに急ぐのだろう。なぜ、なんでもかんでも自分のものにしようとするのだろう。人生は自分に与えられたギフトを磨き上げるだけでの、時間が十分あるわけではない。

 

(2010年4月)

  在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家
                ライフワークとして砂漠写真(砂丘写真)を撮り続ける
                生態系というものを砂漠地帯の営みにみる 欧米文化

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
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