写真芸術 【小池キヨミチ】

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ひとりごと - 生きること

 アメリカ合衆国コロラド州在住 在米写真作家が綴るひとりごとシリーズ [もくじに戻る]


 生きること

  文明の波が押し寄せその勢いが衰えることなく人間社会を飲み込むなか、写真芸術というものを深く考える時が頻繁にある。なんでも容易にボタンを押せばできてしまう時代に、「便利な装置」を開発する人たちは何をどこまで考えているのだろう。効率のよさと、自分でできることまでやってくれる装置の齎すものは深く考えると導くものに違いがある。また、土地の人たちが食べていくために切り開いた山野に横たわる畑や田が、流通システムやインフラの拡張によって、他の土地にまで「売れる」ものをつくるために更に自然に切り込んでいく。先人がアニミズムをもって、入ってはいけない一線を引き、守ってきた生態系にまで踏み入る時代が続いている。近年の「天災」は、そんな人間の手の入ったところで土砂崩れや洪水を起こしているが、「人災」と知ることなく単に地球温暖化による異常気象で済ませるのだろうか。自然のすることには全て理由がある。何がこの状況を引き起こしているかを明確に理解しなければ、自然はその性格に従って今後も「なるべきことになる」ような動きを続けることだろう。「水は必ず低い所を探して流れる」が、その通り道に手を加えると、水は自然の流れを失う。 「土を掘り起こしたら、その土は積み上げないといけない。」

 人間の精神はどうであろう。目に見えないソフトな部分は説明し難いことがある。物に恵まれてお金があれば何でも手に入る「便利な時代」になっても、病気はなくなることがない。健全な社会では病院は閑散としているのが理想だろうが、米国などの状況をみていると、暇どころか常に拡張をしており看護婦などの不足を訴えている。大型総合病院の駐車場は常に車で溢れ、一方健康保険制度は大きな問題を社会的に投げかけている。この点においては、日本は安心感という心理があると思う。食生活の質的な(身体に与える影響)問題に関して思うことがある。今では当たり前にあちこちでみられるファーストフードが齎している身体や体質への強烈な変化に耐え順応できている人はどの位いるのだろう。肉食量の多いアメリカでも70年代に基礎を固め80年代から爆発的に伸びてきているファーストフードなどの流れと共に、それ以前にあった疾病チャートとは違った動きがでている。近年女性パワーで活発になり、メディアを通じて大々的に騒がれる乳癌撲滅運動は世界的な勢いをもって広がっているが、以前からここまで騒がれていた疾病だったのだろうか。リボンの色を変えることによって同調や同情を促すのではなく、社会的なチャレンジと理解して、単に発病した人や身内のレベルだけに留まらず、生活そのもののあるべき姿を見直す運動として動き出したらと思うことが多々ある。今年初めに知人の奥さんがこの病との闘いに敗れた。私にとって、今もって大きな心の痛みとなっているが、例えば日本でのその手のフード業界の展開をみると、日本人の体質を考えるにあたって、ビジネス上の営利結果ではなく、どのような肉体的な影響を与えているのだろうと思う。特に穀物を主食としてきた日本人の体質にとって、獣脂のとり過ぎはいずれより大きな姿となって社会に登場してくると思われるし、レトルト商品や加工商品が噛むことを退化させる流れを作ることによって顎の小さい人が増え、唾液の恩恵を失うことによって新陳代謝や内臓疾患にも傾向的に顕著なものが見られ始めることと思う。

 また最近は、精神的に不安定な人が増え、自分本位なかたちでの自殺が増えているという。これは食生活の変化と関係があるのではないか。これは大都会に限ったものではないかもしれないが、帰国時に上京すると移動中の山手線などで「人身事故」という表示をみる。この表示を頻繁に目にするので、東京の友人に聞いたら「ああ、あれね。飛び込み自殺したやつがいるんだよ。」と日常茶飯事のこととして簡単に答える。命とはそんなに簡単に捨てるようなものなのだろうか。しかも他の人たちの足(交通手段)に影響を及ぼす方法でなぜそんなことをするのだろう。昔のように物に恵まれなかった時代を生きた人たちは助け合いの精神が強く、手元にあるものや手に入るものを大切にして感謝していた。近年の人たちにとっての物は、あって当たり前で、金を出せばいいと思っている節があるが、そんな物中心主義のツケとして精神的なアンバランスが存在しているのではないだろうか。「使わないものは退化する」だろう。 近年の傾向とは、そんな依存傾向に裏づけされ、その代償として何でもやってくれる「便利な装置」(技術)が、加速しながら更なる退化を導いている。

 芸術というものが芸術家(アーティスト)の感性の結晶だとすると、その表現方法が何であろうと訴えるものや伝えようとするものが必ずある。写真撮影という方法をもって被写体を写真作家の感性というフィルターを通して捉える時、どれだけ感性が研ぎ澄まされるのかを考える。また、与えられた感性や五感を最大限に生かすには何がベストかということを考えさせられる。公衆電話を探さなくてもポケットから携帯電話を出せば連絡が出来る時代になった今は携帯電話を持っている人には便利である。加えて、高価な携帯電話にはテレビやインターネットの機能があるばかりでなく、ゲームやGPSシステム、音楽機能、録音・録画機能などが入っている。自分でわざわざ動くことなくソファーに座ってコントローラーをいじるカウチポテト(自分で動き、考えることなくじっとしながら太っていく人たちを嘲笑したことば)の姿が目に浮かんでくる。文明の発達はここまでくる必要があったのだろうか。待ち時間にふと空いた「スペース」を活用して本を読んだり、気持ちを休めることさえも忘れている人が多いが、それは、ひょっとすると、この発展そのものが我々人類の将来を暗示する「黙示録」かもしれない。常に急いでじっとしておられない人が目に付くのは私の気のせいだとは思えない。

 写真芸術というものは写真文化が育んだ素晴らしいものであるが、写真展をみていると興味深い質問をするものがいる。「この写真はなぜここにこんなものを入れたのか。」「俺だったらこんな撮り方はしない。」「開放で撮ったのか。」「これはどこかでみた写真だなあ。」など、作家に対する敬意がないばかりか、芸術を鑑賞する基本的な心の位置がない。個展で展示される作品は、テーマが何であれ展示をされる写真作家が、思いをこめて限られた数の作品をセレクトして展示発表し、伝える場である。作品と対面される方々は、それらをみることによって作者の意向や感情、感性、意志やメッセージを読み取ろうとすることに楽しみがあり、作者の感性を作品を通してみることによって新しい世界を知ることができる。このようなコメントを口走ったり、同様の態度で立ち寄る人は、展覧物が何であっても、その主旨が分からないばかりか、芸術の与えてくれる深い恩恵は伝わらない。単なる驕りなら救いはあるかもしれないが、前述のような文明依存過多による感性の退化なのだろうか。

  「僕だったらもう少し右から撮るなあ。」 と個展開催中の写真作家に指導をするものがいた。作者がなぜその作品を撮り、限られた出展作品の中にその作品を入れて発表しているかを全く理解していないコメントである。その人は撮影地の状況を全く知らない。彼のいう撮影ポイントで撮影していたら、数メートル下に転落しているだろうということは、当然知らないことだろう。与えられたコンディションの中で最大、最善のものを残そう(画像として捉える)とするところに写真作家の気の位置があり、感性のつながるところがある。技術が個々の能力を超え過ぎたものを供給すると、このような自分本位な考えが芽を出すのだろう。物に恵まれ、大切なソフトな部分を忘れる時代なのだろうと思うと、命を簡単にあきらめる人たちの心理が多少理解できる気がするが、文明が与えている精神的な影響に恐ろしささえ感じてしまう。人生も同様で、与えられた環境や状況をどのように対処して自分の「作品」を残していくかが、我々に与えられたチャンスなのではないかと思う。生態系の中で存在するものは、有機質も無機質も関係なく、全てに意味があると私は思う。与えられた命は大切にしなければいけない。そして周りに存在するものたちへの配慮が求められると思う。                           

(2009年9月)

  在米日本人写真家: 小池清通 - アメリカ合衆国コロラド州をベースに活躍する写真作家
                ライフワークとして砂漠写真を撮り続ける アメリカ中西部の荒野を独特の感性で
                捉える

 
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写真作家 小池清通 コロラド事務所
「自然とつながる時」
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